就活と恋愛のアナロジーはよくあって、それは自己⇒他者のつながりの選択という共通形態であるからだと思いますが、そうであれば、現代の若者の恋愛観に起こっている変化の兆候には、これからの組織と人の関係性に求められるものが現れていると捉えてよさそうです。これからの組織を考える人事担当者は、次の世代の恋愛観を知ってみるのもひとつの手ではないかと。
先日SFCで行われ、ITmediaでレポートされていた記事を読んでいて、ふと、そんな思いがしました。
というのも、ここで語られている若者の恋愛観が、今の若者が就職や仕事、会社や組織との関係について考えていることと、かなり類似しているような気がしたからです。
たとえば以下の抜粋部分を、恋愛観の話として読みつつ、就職観に対する話として置き換えてみると、どうでしょうか。仕事選び・会社選びやキャリアに関して、どこかに「正解」が存在していて、そこにコストフォーマンスの判断が入るという感覚が特徴であるとの指摘。
“「このレベルの彼氏、彼女を選るのにこれだけのコストが見合っているのか、考えている感じがする。付き合うことのコストを見積もり、コストパフォーマンスを重視しているように思う」”
“ 加えて、「素敵な彼氏彼女は引き当てるもので、当たり外れが決まっている」という感覚も。インターネットを通じて出会いの機会が増えたため、「成長しあって素敵なカップルを目指す」といった発想がなく、“当たり”の彼氏・彼女か、投資対象として見合ってるかを判定しているように見える”
“一方で、「ロマンチックラブイデオロギーは薄れていない」。彼らは“本物の”恋愛対象が現れれば時間をかけてデートをし、お金をかけてプレゼントを贈るべきと思っている”
こういった感覚でつながりを探している若者にとっては残念なことですが、「当たり」も「正解」もどこかに既に存在しているものではないでしょう。
それらは自分で作らなければならないものなのですが、さまざまなプロダクトを与えられ慣れている世代にとって、自分の好みに合う何かは、どこかに準備され存在しているという感覚が根強くあるように思います。
しかし仕事をするとか、自分のキャリアを築いていくとかは、他者が何か準備してくれれば成就するものではないし、プロダクトのような形をしているものではない。
そして、判断の場において準備され差し出される情報は、都合よくパッケージされていて、プロセスが美化されていることが多い単純にコマーシャルメッセージであることがほとんどなのだから、それをそのまま真に受けたインプットは、いっかい考え直すのがいいと思う。それが、これから求められる能力のひとつ、情報リテラシーということだと思います。
“「シミュレーションの精度が上がっていくと、ほんのちょっとの違いが膨大な違いに思え、えんえんとそこが気になるのでは。”
実際は、そういうものがどこかに存在しているものではない、どのようなチョイスであっても自分で修正をし続けないといけない(修正すればいい)という当たり前のことを、大人が適切なタイミングで伝えなければならないと思います。しかし、お気づきのとおり、この状況を作り出しているのがその大人のほうなので、期待ができません。若者は自力でそこを乗りこなしていかないといけない。
黙っててもチヤホヤされる人じゃない限り(←そしてこういう人も、ほぼ存在しません)、それに気が付いている人といない人との差が、「実際に恋人がいる」「その恋人に満足している」の違いになりそうな気がします。
企業側の自己反省を。
最近の若者は草食だとか、準備されたものに頼りすぎるとか、結論・正解ばかり求めたがるとか、そういうことを言いながら、その状況を助長するような行動を、採用の場面にしろ恋愛に関するメッセージにしろ、企業や大人側が安易に吐きすぎなのでしょう。
自分にとって安全な、都合の良い情報を発信することしかできず、リアルな情報流通にはびくびくしている。情報にしろ受け手のリアクションにしろ、コントロールできることが望ましくて、それをそのまま受け取る相手を良しとする。その割に出している情報は表面的でクオリティが低い。そして、何よりも、自分たちも「正解」の学生を、コストパフォーマンス良く引き当てようとする。
就職というフィールドで考えた時、こういった状況を作り出す当事者として、企業側が見直すべき点は多々あると思います。
就活の場においては、これらの状況は、ナビサイトが可能にした各企業の「安直なメディア化」とマスアプローチのロジックによるところが大きくて、そのしくみの中では、マスメディアよろしく、大量の情報のなかで分かりやすい差別化の手段が横行してて、加えて、数量と効率の中で選択作業が行われるという、たいへんな罪が繰り広げられていると感じています。
そして、その結果として何が生まれたかといえば、恋人関係の醸成ではなく「セフレ」のような関係ということでしょう。
企業は、自社の説明会出席率や、内定辞退率、もしくは退職率をよくよく眺めてみれば、学生や社員とどういう関係になっているかが端的に表れていると思います。
“会社の後輩の20代の男性は、親密な女性はいるものの、この女性を彼女とはみなさずに「セフレ」として付き合っていたという。「恋愛には積極的だが、このぐらいのレベルなら恋愛ではないという認識のようだ」”
“「セフレと素敵な恋を育てていく、という感覚はない”
就職活動の時点から間違い始めた両者のスタンスは、働き始めてからの関係性にも強く影響し続けて、「セフレ」レベルのコミットメントしかお互いに得られなくなる。かといってその関係もだらだら続いたりする。
これをお互いに解決しなければならない、というのであれば、それを作り出すこれまでのプロセスや、そのプロセスの背景にある思考の枠を、いちど根本的に疑ってみることが正しいように思います。できることは多々あると思います。
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さて、一方で、企業は、セフレから恋人に昇格することを一意に目指して組織作りなり環境づくりをしていくことが可能なのか、それだけが解決方法なのか、という角度からも考えていく必要があるかもしれません。
働く側を「セフレ」に降格しようとしはじめたのは企業のほうだという考え方が適しているとすれば、(それが企業が成長力を保とうとした際の選択であれば)お互いにセフレ同士の関係の中で、あたらしい価値の在り方を探し求めていくものという道はないでしょうか。そこは、もしかしたらマイナスに捉えるのではなく、新しい人と組織の在り方のヒントがあると考えてみる手はないでしょうか。もしくは「セフレ」ではなくなることは「恋人」になることだけが進むべきベクトルではない、その一方向感がそもそも過去の枠組みだ、という考え方を具体化し、お互いの幸せと最適なアウトプットを作り出す方法があるかもしれません。
“(気軽な付き合いは)ラブプラスぐらいで十分、いや、ラブプラスのほうがはるかに理想型に近い”
リアルな恋人とのつながりを代替する可能性としての、ラブプラスというバーチャルには、何があるのでしょうか。「恋人」との恋愛とは違う何かで強く引き付ける仕掛けは、「セフレ」関係を生み出しているのではありません。瞬間的だけれども強いモチベーションを形成し、アウトプットしていくという関係の在り方として、「はるかに理想型に近い」。
実は、「恋愛関係」を想定するときに、具体的な場所とか組織とか(出世とか名称とか?)何かの形に落とし込まれたものに対するエンゲージメントを(昔ながらに)捉えるのであれば、それとは違うものへのエンゲージメント、もうすこしぼんやりとした何か、にこそ、恋人とは違うひとつの理想的な関係性をつなぐ可能性はありそうな気がします。
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さらに、初音ミクに注がれるモチベーションや、ニコ動に実現しているアウトプットには、これからの人と仕事の関わりあり方と、そのモチベーションのあり方の一端を見せられているといったら、極端でしょうか。
“初音ミクのコンサートを会場で見たある人は、「会場ではなくニコ動で見たかった」と話していたという。「コメント付きでないと、ミクを見てる感じがしないらしい。”
“「ミクという“3人称的な誰か”がいるが、実際に作品を作り、支えているのは俺たち、オタクたち。他人への愛とは違う、“4人称に対する愛”みたいなのが立ち上がってきている」”
ニコ動が作り出しているのは、組織とか名称とかへのコミットではなくて、異なる場所にいながら、共通の志向のもとに集まったメンバー(のエネルギー)によって、ひとつのプロジェクトが、フラットな関係のなかで、疑似同期的に完成されていくプロセスの「リアル化」と見ることができそうです。これは、これからの人・組織・アウトプットのひとつの関係を、そのまま示しているように思えます。
初音ミク(という強いモチベーションを作り出すプロセス、またはそのアウトプット)は、リアルな場での恋人という関係に対する以上のモチベーションを(おそらくラブプラスと比較しても異なった形で、さらに強く)引き出す可能性を持った、あたらしいリアルのひとつの形と思われます。思考軸の在り方として、リアルな世界のセフレをどう恋人にするのかではなく、あたらしいリアルの「初音ミク」を、何かのアナロジーに引き寄せられないか…と、職業柄、いったんは整理しておきたい気がしてます。
ネットが進展した社会では、恋愛の在り方の変化と同様に(相似に)、仕事やキャリアについての考え方にも変化が現れるのでは、というのが今回のテーマでした。
そこにどのような対応をし、関係を結ぶお互いの中に、どのようにあたらしい価値を作り出していくか。これまでのところに確固たる回答があるわけではないのですが、いまあるリアルな世界に固定化する「正解」の引き当てっこを続けるか、それとも、あたらしいリアルに参加するか(もちろんこれは二律背反ではないように思いますが、)人・組織・アウトプットのあたらしい関係性につなげて考えられないだろうかと。
“相手が好きという感情のおかげで自分を愛せるという関係がうまく釣り合っていると、誰かと長い時間を過ごすことに納得ができるのではないか”
“「分人化され、限定されたナルシシズムでもいいのではという開き直り」ととらえると「納得できる」”
文責:人事・採用担当 浦野
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